脳死について感じること。

脳死について感じること。
脳死というのはすべての脳の機能が停止してしまい、
人口呼吸器なしでは生命活動をすることができない状態のことだそうだ。
脳の機能は停止しているかもしれないが、脳が腐っているわけではなく、
その人の記憶がすべてなくなっているわけではないと思うと、
機能していなくてもその人は生きているのではないかと思ってしまう。
僕は医学に詳しくないので感覚的なことで言っているだけである。
機能していない=生きていないとみなされて家族に延命の必要なし
とみなされれば生命維持装置を外されて命を奪われてしまう。
結局役に立つか役に立たないかで判断されてしまっており、
家族にとってこれ以上生命維持装置で生きていられても
お金がかかるし、何も生み出さないから装置を外す。
そして本人がどうしてほしいかもきかず、
家族はみしらぬ他人に臓器を提供してしまう。
他者の命が救われるということは大切かもしれないけど、
自分が生きるということも人が救われる以上に大切だろう。
生命維持装置をつけていても体の臓器が腐っていくという
ところで人はようやく本当の死を迎えるのである。
そして肉体まで死んでしまったら臓器を抜き取れないので
脳死とされる患者の体が生きているうちに臓器移植のために
臓器を抜き取るということが盛んにおこなわれている。
そこで僕が感じたのは人間というものはほんとに糞だと思った。
役に立たない呼吸をしている存在はゴミだと思っているから
脳死で呼吸だけしている人を殺している。
最近6歳の女児が脳死と判定され臓器移植のために命を奪われたが、
彼女の親は自分の子供が生きたいという意思を無視して
彼女の臓器移植をするという決断を決めた。
それに対して僕が感じたのは、
確かに臓器をもらった患者さんは長生きできるかもしれないが、
その女の子は脳死と判定され臓器移植するという決断を親がしてしまった場合、
即刻、命を奪われてしまうのである。
人を殺してでも長生きしたいというとんでもないことが起きている。
臓器移植しないと死んでしまうと思っている患者さんも必死かもしれないが、
自分が生きるためには誰かが死ななければいけないという現実を直視したら
臓器なんて絶対に受け取れない。
どこかに自分さえ生き延びればいい。他者なんて死んでしまえばいい。
そういう邪悪な部分があるのではないのかと僕は思っている。
僕は他者の命をうばってまで生きる必要はないと思っている。
死ぬときは定めに逆らわずに死ぬべきだともうのだけど、
自分がもし病気になったら臓器がほしいと必死にわめいてしまうだろう。

脳死と動物の命

脳死したら命の価値がないということは思考能力が低い人間は命の価値がない。
そういっているのではないかと個人的には思ってしまった。
正直犬猫、なんて知能が3歳児程度しかないので、
簡単に飼育できなくなれば殺処分という目にあってしまう。
脳死患者も同じく脳が働いてないバカは生きている価値がないと思われて
臓器を抜き取られているといっても過言ではない。
最近上記のことを考えるたびに、
役に立つか役に立たないか、知能が高いか低いかで命の価値を決めている
人間社会というのは恐ろしい社会だなと思ってしまう。
知能が低いから感情がないわけでもないしせいいっぱい生きている。
そして脳死だからといって本人が命を奪われたいとは思っていない。
結局今元気に生きていて力あるものが、力なきものの命の価値を
かってに査定してるだけなんだなとおもってしまう。
どうすれば命の価値は平等になるのかをもっと議論するべきだと思う。

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