AO入試で思うこと。

AO入試で思うこと。

AO入試って別にいらないと個人的には思っている。
特別な能力を持っている人を大学に入学させるための試験だそうだが、
基礎がなければ発展もくそもないわけで、
基礎的な学力をもっていない生徒がやすやすと大学に入れるのはおかしいよなと。
スポーツ推薦で慶応に入りましたとかで思うのは、
大学って勉強しに行く場所であってスポーツしに行くわけじゃないから
スポーツで大学に入るならスポーツ系統の学科意外は入学させてはいけない。
個人的にそう思っているけれど、大学としてはスポーツで学生が活躍すれば
大学の宣伝にもなるからプラスなのだろうけど。
個人的な感情の話になるけどAOって特別な能力がある人を入試で入れるみたいな話だけど、
健常者なら努力すればできないことなんて何もないのだから、
そうやってうまれもった優れた能力的な意味合いで人を選抜するというのが
僕は一種の差別的なものを感じるから好きではない。
AOで入る人は特別な力や才能をもっているやつで
一般はそれがないから仕方なく学力で大学に入学しているという風になってしまうから。
大学とは努力という平等という部分で人を評価する場所であるはずなのに、
努力で測れないあいまいなコミュニケーション能力とかいう意味不明なもので
人を判断しているというのは個人的には好きにはなれない。
英検2級とかトーイックという資格を重視するというのも
資格は所詮資格であり、優れている人でも資格をもっていないだけで
評価されないというのもおかしな話である。
AOで優れていると評価されている人だというのに
大学卒業後はサラリーマンとして終わってしまう。
AOで入学してくるからにはマークザッカーバーグみたいな起業家になって
雇用をどんどん生み出してもらいたいのだけど、
日本のAOの現状は楽して受験を突破したい人がAOを受けているので
そういうすごい人材が生まれにくくなっているのではないだろうか。
もっともFランク大学なんてほとんどがAOで入学しているので、
AO入試が廃止になてば経営もやばくなってしまうので、
大学の経営を支えるために存在している入試手法である。

早稲田と慶応にはAO自体をなくしてほしい。

日本のトップといわれる私大でも推薦入試やAOがあるのはなんだかなと。
トップなのだからコネとか面接とかそういう者を全部とっぱらって
学力という平等な基準のみで図ってほしいとおもう。
社会に出たらコネは大事かもしれないが、入社すれば実力主義しかないのだから。
学問という場所では平等ほどとてお大事なことであり、それを守ってほしい。
ここでいう平等とは努力して能力をあげて結果をだせば評価されるということである。
AO入試は面接官に気に入られさえすれば能力がしょぼくても入学できるというものなので
なんだか、勉強を見られていなさすぎて努力した人が報われない糞みたいな制度である。
AOで大学に入るということは受験勉強もせずに楽してはいるので
大学受験にむけて本気で頑張ってみるということを体験できないし、
努力しても受験に落ちるという挫折を味わうことができないので、
人間的になにもかもうまくいくと勘違いして生きていくことになる。
人生とは妥協の連続であり、成功しないこともあるのでどこかで妥協しなければいけない。
その妥協というものを知るチャンスというのが受験であり、そのチャンスを奪っているのではないか。
僕自身人生は失敗の連続であり、うまくいったことばかりではないけど、
上手くいかないから見えてきたものも多いので、
受験においては不明確なものよりテストによって自分の能力が低いから落ちたということを
自覚できるように試験重視にしてもらいたいなと思います。
早稲田と慶応のAOでもバカが大学に入学しているのだから
Fランク大学のAOで入ってくるのは馬鹿とかいう者を超越しているのかもしれない。
ここでいうバカは受験勉強をしてこなかったものである。
ここからは僕個人の見解になるが、
僕自身、健常者つまり知的障害じゃない限りは努力でなんでも乗り越えられると思う。
障害者に頑張れというのは間違っているけど健常者で努力してできないというのは甘えである。
受験においても健常者なのだから面接とかでこいつは才能が有りそうだから合格というのをやめて、
勉強という努力して能力をアップさせたんだなというのが明確にわかるもので人を判断してもらいたい。
IQが高いと顔がいいとかコミュ力があるとかそういう生まれ持ったものではなく、
勉強ができるという努力の部分をもっと見てもらいたい。
勉強するばしょにおいて才能があるからうちの大学にこいというのは、
努力して人を超えようとしている人をバカにしているものではないだろうかと思う。
努力をバカにしているような受験制度はなくなったらいい。

東大でAO入試を実施していることについて

東大は学力でしか入学できず、もっとも平等な場所であり、
努力したものを優遇する大学だと思っていたが、
最近AO入試を導入したのはとても残念なことだと思う。
しかもAOに応募できるの各校男女一人ずつしか応募できないそうだ。
それって進学校に行っている人がとてもふりになるしフェアじゃないし、
灘とか東海とか開成に通っておりとても優秀な学生はAOに応募できなくなってしまう。
学校という場所は努力を尊重する場所なのだから人数なんて決めずにだれでも
応募できるようにしなければいけない。
この制度では進学校生徒に比べてたいして努力していない生徒が
東大に合格してしまうということを引き起こしてしまい、フェアではないし、
推薦が増えるということは一般の受験枠が減ってしまうということにもなるので、
努力して学力をあげてきた学生が東大に入れないという事態はひきおこしてしまう。
学校という場所が努力という者をあまり尊重せずに、才能ばかりを尊重しようとするのは
馬鹿は勉強してもむだだという風に暗示している感じがあってあまり好きになれない。
馬鹿であっても健常者なら努力すればするほど賢くなっていくし、
努力の量で天才を超えられることがあるかもしれない。
その可能性を否定し才能だけを優遇しようとするAOは廃止してもらいたい。
学力をとても重視する大学が才能を重視しようするのはなんだかなと思う。
国公立大入試は自分が苦手な科目でも努力でできるようにしていかないといけないし、
ほんとに努力したものが優遇されている試験だと僕は思っている。
なのに、東大は一科目でも優れている学生がほしいと思い、
AO入試を始めてしまった。
全部できるってことは嫌なことでも努力できる人間だということを指しているだろうし、
社会に出るうえではとっても大事なことだと個人的には思っている。
好きなことしかしないと落ちぶれたときに人生が詰んでしまうし、
あれもやりたくないという人間になってしまう。
落ちぶれたら理想の自分から外れたことでもなんでもやるという人間のほうが魅力的である。
人生にレールなどないのだから、いつかは落ちぶれることもある。
受験の結果のみで評価すれば嫌いなことでも頑張る人が大学に集まる。
AOで1科目だけ優れている人を選べば好きなことしか頑張れない人が集まる。
僕はそういうふうに考えている。

一般入試はAO入試に比べてどうか?

一般入試だと私立だとたいてい3科目は勉強しなければいけないし、
国立だと、最低で3科目最大で8科目勉強しなければいけないので、
勉強の量でいうとAOの3倍以上はしている。
AO入試だと面接と小論文ということもあるので基本的に0科目で
努力をせずに大学に入学できてしまうということも起きているといってもいい。
AOで大学に入ろうとする人はAO専門の予備校に通い、
面接対策や小論文をかくという学力とは違うテクニック的なことを練習しているし、
テクニックを学んでもIQを上げることはできないし物事を考えるくせもつくこともなく、
どうやったら楽して問題をクリアできるのだろうという風に考える人間にしかならない。
あと就職においては愛想よくして、気に入られれば採用というものだし
AO入試とそっくりなしくみだけど、
いざ起業してビジネスを立ち上げようとしたときは
人に気に入られるということには何の価値もないし、
自分の基礎学力を生かして特別なスキルを取得して誰もやっていないことを見つけてビジネスを立ち上げる。
そう考えると本当に世間で成功できるのに必要なのは学力だよなと思う。
AO入試で大学に入学できる生徒は人に気に入られるということについて
優れている生徒であるし、AOの面接があるという入試形態上、
どんだけ優秀であっても、面接官に気に入られなければ不採用になってしまう。
つまりめちゃくちゃ能力の低い奴であっても数をうてば自分を気に入ってくれる
面接官と出会うことができれば採用されてしまうということが発生する。
早稲田、慶応でも学力が足りなくても面接官に気に入られれば合格する。
努力という面では全然フェアではないが、面接で自分を売り込む人が合格しやすいという点では、
就職活動でいい企業に就職し大学の就職実績をあげてくれる人材なのかもしれない。
ほとんどの人が就職というものをするので、大学の言う優れた人材が
いい企業に就職するという人ならばAO入試で合格する人のことなのだろう。
最後にAO入試で大学に合格できる人は、自分の能力以上にできる人間だと
見せることができる人間なので情報商材とか販売して第二の与沢翼になれる可能性も含んでいる。
そして情報を売るということをしたら一流かもしれない。

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